2022年2月26日    西行の時代 補記(六) 残映
 
 平安末期にみられる平氏・源氏、武士間の相克・争乱は、事に当たるさいの柔軟と強硬、寛容と不寛容を如実に示しています。勇猛で硬軟兼ねそなえた清盛の路線を継承するはずの重盛はすでに没し、異母腹の宗盛は、慎重だが硬軟を使い分ける機略を欠き、勇猛でもなかった。
 
 清盛が存命であれば源平合戦はどうなっていたでしょう。地方武士の多くが源氏側に味方したでしょうか。清盛は保元・平治の乱の勝者。地方武士が得心するのは理屈ではない、身体を張った戦闘経験であり、勝利です。
様子見の朝廷や貴族が敗者に頼ることはありません。平氏が連戦に耐えて勝ち、都に攻め入る源氏を防いでいれば、後白河法皇は頼朝に対して院宣を出すこともなく、平氏に随うほかなかったと思われます。
 
 源氏の勢いを伝え聞いた法皇は、敵味方もへったくれもなく平氏、頼朝、義仲、義経などに院宣を乱発。関東東海、北陸近畿が戦場となる。
仲間争いさせる意図を持っていたという説もありますが、法皇はいきあたりばったりで、左右大臣も兼実に象徴されるように、法皇の前では態度をあいまいにし、ことばを濁した。「玉葉」で言いたいことを書いたのは鬱憤晴らしです。
 
 後白河院は危機がせまるたび逃げ回り、あなたこなた態度をひるがえし、一貫性も誠意もない。三種の神器なしで践祚も即位もおこなう。身体も意地も張らない天皇。乱世のたびにこのような方が出現すればタイヘン。そういう院を柔軟に対応したと好意的、肯定的にみる史家もいます。21世紀的見地に立てばそうした見方も可能なのでしょう。
 
 後白河法皇の無責任がきわまったのは、大軍の頼朝軍と法皇が支持している義経軍が一戦交えることとなった文治元年十月(1185)。どちらが劣勢か誰の目にも明らかです。美川圭著「公卿会議」に、大蔵卿・高階泰経が兼実に言ったという「ただ臣下議奏すべきなり」(玉葉)。
「そうした切羽詰まった状況で、後白河は究極の責任放棄、つまり国政の責任すべてを臣下に転嫁する方策に出た」。泰経が述べた「ただ臣下議奏すべきなり」はそれを如実に示すものなのです。結果的に都での一大決戦が避けられた。臣下が法皇に奏上してそのようになったのかもしれませんが、朕には一切責任がない。退位は考えもしなかったでしょう。
 
 法皇がまともに対応したのは、義経の都脱出後、文治二年(1186)から崩御までの5年半だけではなかったでしょうか。このときばかりは頼朝に対して相応の動きを示した。晩年になって一生分のはたらきをした天皇。
 
 義仲が都へ乱入したとき貴族は、義仲がとんでもない食わせ者だとわかって狼狽した。宇倶頼那に猛スピードで侵攻した露国にうろたえる学者・専門家・報道陣などと同じ。バイデン氏が諜報機関の機密情報をもとにして口酸っぱく露国侵攻をくり返したにもかかわらず、実行の可能性は低いだろうと呑気にしておられた。
 
 五輪のさなか、テレビ番組でスポーツ評論家・二宮清純が、(五輪開会中)プーチンが習近平に会いに行ったのは、閉会式が終われば侵攻し、欧米が経済制裁を加えるという前提で、中国との経済強化のためと言っていました。諸外国に派遣された人間の経験から生じる肌感覚です。
 
 義経について戦前戦中の史家が脚色の多い「源平盛衰記」、「義経記」、「平家物語」をなぞらえて著すのは義経の偶像化にほかなりません。英傑願望があるからでしょう。そういう風潮は戦前の史家に顕著で、「官立」大学教授は陸軍に追従し、教え子は疑問を隠し師匠に逆らわなかった。官は権威によって保たれています。師に逆らえば栄達の道は閉ざされる。
 
 一の谷の合戦で義経が険しい騎馬兵七十余騎を率いて崖を下り、須磨で野営中の平氏を襲撃したとされて(鵯越=ひよどりごえ)いますが、伝聞はいつのまにか事実となって語られ、さまざまな物語をかたちどっていく。義経伝説の実体を解明してもらいたいものです。
目撃者の日記、もしくは手紙、あるいは目撃者の話を聞いた僧侶の日記はないのでしょうか。寺社の蔵を根気よく探せば何か出てくるかもしれません。しかし後世に色濃く残るのは、実体ではなく物語なのです。
 
 鵯越の義経は大坂陣の真田幸村と同じ急襲、もしくは奇襲。少ない兵で大軍を撃破する。例え方が不適切なのを承知でいえば、真珠湾攻撃の日本軍は義経の気分だったやもしれません。
 
 義経の都滞在は寿永三年(1184)から約一年半におよび、都に知人は少なくない。文治元年(1185)、「守覚法親王(仁和寺の門跡 後白河院の第二皇子)が義経を招いた」ところ、義経が語る「合戦の旨」を守覚は記した(「左記」)。「都鄙大乱」は、「合戦の具体的な様相を貴族・高僧らに語る機会も多く」と述べています。
手柄話は身内や武将に語るより、実戦に縁のない都の貴族、僧侶に語るほうが真実を吐露しやすかったのでは。義経の実体は謎めいており、鵯越えに関しては専門家の興味深い推論もありますが、ほんとうのところはわかりません。
 
 義経が都の治安を任せられていたとき都の秩序は保たれました。義仲とは大きな違い。兼実は例のごとく大仰に「玉葉」に書きとめています。「義経、大功をなし、武勇と仁義においては後代に佳名を残すものか。歎美すべし歎美すべし」。それから間もなく頼朝と懇ろになる兼実に持ち上げられなくても、義経の武勇は後世に残ったのです。
 
 寿永二年(1183)七月二五日、宗盛らは安徳天皇、建礼門院徳子(のりこ)を奉じ、平氏一門の多くを率いて都を脱出。そのとき六波羅、西八条の平氏の舘に火をかけ、ことごとく灰燼となりました。屋島にわたり、追われて壇ノ浦。
知盛、教盛、経盛など多くの武将が西海のもくずとなるか討死しました。しかし女性で入水死亡したのは二位尼(時子)だけです。徳子ほか多くの女性は救助され都に送られた。
 
 建礼門院の幽居として寂光院が選ばれたのは、「建礼門院の女房(阿波内侍)の父が所有する一坊を勧めた」(角田文衞「平家後抄・上」 平家物語長門本による)や、「大原山の奥、寂光院と申し候ふところこそ閑かにて」、「山里はさびしき事こそあるなれど、世のうきよりは住みよかんなるものを」(平家物語潅頂巻)と申し上げたようです。
 
 文治元年(1185)秋、建礼門院徳子は寂光院へ。記録にはありませんが、寂光院では数人の尼僧(出家した貴族の娘)が話相手となっていたでしょうし、徳子の身の回りの世話をする雑仕女も複数いたでしょう。
 
 「建礼門院は建久二年(1191)二月薨去された」、亡骸は「現在の大原西陵に葬られた」という「建礼門院御墓実検勘註」(明治九年京都府が提出)が下敷きになっています。「京都後抄・上」は、「伝承的な女院の御墓をそのまま素朴に肯定したそしりを免れない」と批判。
 
 「平家後抄・下」に、「建礼門院は1190年ごろ寂光院から岡崎の善勝寺へ移られた。都に残った平氏関係者が訪ねるにも至便であった」と記され、徳子没年が1214年とする一般説を否定、1223年に没したと述べています。
 
 同著には、「承久元年(1219)四月、尊勝寺西塔から出火した炎は円勝寺に燃え広がり、その南隣の善勝寺も焼き尽くし(「百錬抄」)」、「建礼門院は鷲尾の金仙院に移る」と記されており、鷲尾(わしのお=東山区鷲尾(わしお)町)一帯は現在、霊山観音、高台寺墓地となっており、丘から西の方角を眺めると祇園や南座、四条河原町を望めます。
 
 金仙院は1245年11月焼失しましたが、庫裏は再建されたそうです。金仙院から雙林寺(そうりんじ)は隠棲者の坂。現在の日本料理店「菊乃井」が金仙院付近に位置します。西行が一時雙林寺に住んでいたと「山家集」に記され、そこには西行庵(花月庵=18世紀復興)がひっそり佇み、往時を偲ばせます。

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