2022年4月6日    西行の時代 補記(七) 宗盛の判断
 
 来たるべき源氏勢力との戦いにおいて平氏統帥の立場にあった宗盛はどう考えても優柔不断です。戦う気持ちと和平への気持ちが交錯するのはしかたないとしても、抗戦するならはっきり源氏を迎え撃つと宣言すれば平氏軍の士気はあがったでしょうに、中途半端なまま都を放棄しました。清盛が生きていれば状況はまったく違ったと思います。
 
 意気盛んな者に対してだけでなく、臆病風を吹かせる者に対して決然と戦う意志を表明し、陣取りなどの軍事作戦を迅速に講じた上で勝負を挑んでこそ仕える者の本望は達せられるのではないでしょうか。逃散し追われると味方も戦意を失い、敵の思うつぼでしょう。
ウクライナ国民が必死になってロシアに抵抗するのは、ゼレンスキー大統領が覚悟を決め国民を鼓舞している。国民が彼を支え、後押ししているようにも見えます。国民の覚悟は第二次大戦の英国かそれ以上かもしれない。
 
 誰しも戦争に巻き込まれたくはないけれど、非道な輩が侵攻してきたら、戦う意志ある者は一丸となって敵に向かう。兵士としての経験がなくても武器を使うための訓練を受ける。20世紀のヨーロッパ、度重なる戦争によって国を占領され、自分の国を失うかもしれない危機的状況から市民は学びます。
 
 武門の誉れ高い伊勢平氏の流れをくむ清盛が亡くなり、宗盛の平和主義は事態を悪化させる。「玉葉」によると清盛は死後の国政を後白河院と宗盛が協力するよう申し入れたところ、院は態度をあいまいにして返事しなかった。清盛は怒って、「天下の事、ひとへに前幕下(さきのばっか)の最なり。異論あるべからず」と言ったそうです。
 
 幕下とは近衛大将(宗盛)のことで、国政は宗盛が執るという意味。清盛の葬儀がおこなわれた日、院は祝宴を開き、近習や端女に今様を舞わせていたらしい。
 
 宗盛は清盛の死から二日たって、「故入道の所行など、愚意に叶はざることありといへども、諌争(かんそう)することあたはず。ただ彼の命を守りまかり過ぐる所なり。今においては、万事ひとへに院宣の趣を以て、存じ行ふべく候」(「玉葉」)と述べている。
平氏から後白河院政への政権返上は混乱もなくあっさりとなされました。平和主義は時として滅亡の火種となる。宗盛は父のような度胸も統率力もないと自覚していたと思われます。
 
 治承が養和と改元された養和元年(1181)、前年の日照りのため飢饉が都を襲い、洛中に餓死者があふれます。「百錬抄」は、「近日天下飢饉。餓死者その数を知らず。僧綱・有官の輩、その聞こえあり」と記している。餓死者は庶民だけでなく僧侶、官職に及んだのです。
「玉葉」は、「安定した水路であるはずの淀川でさえ水が乏しく、舟の運航に支障が出た」(九条兼実は都から淀川を下った)ということを述べている。
 
 「源氏の反乱によって東国、北国からの米が途絶え、源氏追討の兵糧米徴収が食料不足に輪をかけた」(2022年2月10日刊「平氏政権と源平争乱」)。兵糧米の在庫が底をつきかけ、源氏追討を続けられる状態ではないというのが宗盛の言い分です。
 
 養和二年(1182)五月、寿永と改元されてからも飢饉は収束しなかったのですが、都に束の間の安息がもたらされ、十一月に安徳天皇の大嘗祭がおこなわれます。寿永二年(1183)、八条院蔵人だったころ以仁王令旨を配布した源行家が頼朝に離反、北陸の義仲と合流し都をめざす。
寿永二年四月、維盛を大将とした大規模追討軍が北陸へ出撃。しかしほとんどはにわか徴兵による軍勢です。士気は上がらず戦う意志も低い。指揮官も統率もあいまい。
 
 地理に通じていない平氏軍は道案内人を持たず北陸へ向かい、五月の倶利伽羅峠、六月の篠原の戦いで敗北し壊滅状態となります。七月、近江に侵入した義仲軍防御の策として宗盛らは延暦寺に協力を申し出るのですが、延暦寺は拒否し、平氏の意向と裏腹に義仲たちを招き入れました。
 
 義仲らの侵入を防げないと判断した宗盛は都落ちを決断。七月二十五日、平氏一族は太宰府へ落ちのびる旅路についたのです。太宰府で九州の平氏の力を結集し、巻き返しを図るつもりだったといわれています。都落ちで洛中の戦禍を避けることはできましたが、六波羅、八条の舘に火を放ちます。壮麗な邸宅はことごとく焼け落ちた。
 
 平氏一族は当初、鴨川の東の六波羅に居を構えます(下の略図右側の黒い部分)。八条大路には鳥羽法皇と美福門院の子・八条院御所があり、平氏一族はその両側に邸宅を造営。西八条殿には重衡、教盛の舘もありました。
平氏滅亡後、「西八条には源実朝の屋敷が建てられました」(「高橋昌明「京都千年の都の歴史)。六波羅には承久の乱のあと六波羅探題が設置。東福寺・本坊の南の六波羅門は六波羅探題にあったといわれています。
 
 
   かつて平安京の大内裏は都の北にありました。都の物資が南部に集まり、流通の発展にともなって王家や貴族のなかに
   八条や九条に邸宅を建てる人たちが増え(八条院、九条兼実など)、平氏の拠点もそこに移ったのです。略図は「平氏政権と源平争乱」より


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