2022年4月19日    DCI Banks

 
 2010年から2016年にかけてBBCで放送された「DCI Banks」は英国で高視聴率をかせぎ大ヒットしたテレビドラマ。DCIは「Detective Chief Inspector」の略で、Detectiveは刑事、Inspectorは警部。
グランドコンサイス英和辞典にDetective Inspector=刑事係警部と記されているが、刑事はこの場合「刑事と民事」の刑事。Banksはアラン・バンクスという重犯罪捜査班・主任警部で、WOWOWが「主任警部アラン・バンクス」としてシーズン1〜シーズン5(最終章)全作を放送。
 
 「あっち向いてほい」2021年7月8日、10日に「秀作アラン・バンクス(1)、(2)」として書き記しましたが、4月に入ってこれはと思う海外ドラマがなく、昨年に続いてダビング映像をみた。昨年はシーズン4と5だけみたが、今回はシーズン1の第4話とシーズン2〜シーズン5。
何度みてもそのつど新たな発見がある。前のシーンのせりふや描写が後のシーンに関係することに気づく。脚本、演出、撮影、役者、音楽が秀逸でテンポもいい。
 
 アラン・バンクスをやっているスティーブン・トンプキンソンの映画出演はきわめて少なく、「ブラス!」(1996英米合作」、「ホテル・スプレンディッド」(2000英)。両作品で重要な役を演じている。日本ではいわゆるマイナーなので、映画も彼もほとんど知られていない。
「ブラス!」と「主任警部アラン・バンクス」との共通点は、イングランド北部のヨークシャーが舞台であることで、スティーブ・トンプキンソンは高校までヨークシャー州にいた(生まれはダラム州)。だからというわけではないけれど、彼はヨークシャームーアやヨークシャーデイルの風景に溶けこむ。
 
 ムーアが似合うのは「嵐が丘」のヒースクリフ。バンクスは正義感が強く、熱血漢で部下思い。復讐心に燃えるヒースククリフと合致しない。バンクスの自宅はハロゲイト郊外ヨークシャーデイルの煉瓦づくりの一軒家。
 
 事件が起きるとおおむね車に乗ってムーアの一本道を走らせる。刑事はふたりで行動するので、自家用の車を所有者が運転する。バンクスの車はヨーロッパ・フォード製の大衆車。部下のアニーやヘレンはゴルフ(VW社)に乗っている。
これらの車はムーアになじむ。高級車はお呼びではないのだ。ムーアはドラマにある種の緊迫と寂寥感をもたらし、どういう場面の前後にムーアを登場させるかで効果は上がる。
 
 バンクスは離婚経験があり、50歳前後の現在も独身。20歳くらいの一人娘がいて、離れて暮らしている。シーズン3の第三話(「Piece of My Heart」後編)、バンクスの家で語らうアニーとバンクス。アニーの赤ん坊も一緒。
 
 「(赤ん坊の父親が)正式な親になりたいって」とアニー。落胆を隠しながら「それはよかった」とバンクス。「言うことはそれだけ」と怒るアニー。アニー「私を彼に押しつけようと‥」。バンクス「あの野郎と君の復縁を望むと思うのか」。アニー「少なくとも折りたたみベッドを持ち出して一線を引いた」。そのとき玄関ドアのロックがはずされる音。連絡なしに娘が久しぶりに帰ってきたのだ。
 
 アニーへの愛は不変であり、ほんとうは赤ん坊の父親になりたいのだが、愛情表現も、アニーの心情をはかることも苦手で、言葉も足りないバンクス。そういうバンクスを頭でわかっていながら、急所に届かない言葉、煮え切らない態度にイライラするアニー。芝居を感じさせないやりとり。
 
 バンクスは短髪で額の中央部が三角形になっている。このヘアスタイルが似合っている。身長185センチはあると思われ、いかつい身体に意志の強そうなあご。面構えと雰囲気に人間味を感じる。
印象に残る役者は、ほかの誰とも異なる固有の顔と雰囲気を持ち、バンクスの場合、所在なさそうにぼや〜と突っ立っているだけで絵になる。放送は日本語吹替えで、声優・金子由之とバンクスがぴったり合う。声優にも演技力は要るのだ。
 
 サスペンスドラマは推理も楽しみなのだが、バンクスの人間像、現場感覚にあふれ、部下との会話のやりとりは推理よりおもしろい。部下の憎まれ口も効果的。バンクスの冗談、軽口は的をはずすからおもしろい。並外れた脚本、練り込まれた演出。すぐれた脚本は役者の彫りを深め、せりふのやりとりを多彩にする。
 
 彼は自分でも言っているように直感に頼る。21世紀の情報時代にふさわしくないアナログ人間である。しかし経験上、直感は時としてはずれることを知っており、必要な情報を抽出し分析する能力に長けている。膨大な情報を集めて悦に入る捜査官は犯人を逃がしてしまうだろう。
 
 日本で制作される刑事ドラマが論外なのは、制作側、俳優側、視聴者側の多くに特定の、あるいは一定の固定観念があり、特に俳優は刑事らしく演じようと躍起になり、ドラマに登場する都会の刑事は気取っているか崩れているかのどちらかである。脚本家、演出家、俳優は売れないダンゴ、おいしい品をつくる意欲もなく、串にささったまま身動きがとれない。
 
 米国の刑事ドラマやFBIものはどうかというと、顔は変わっても中身はほとんど変わらず、いまだに刑事コジャックの海賊版。昔よりアクションシーン、カーチェイスを多用し、銃の乱発シーンが目立つ。安手の濡れ場はバカのひとつおぼえ。警察官は健忘症で、頭はあまりよくないという制作者側の気持ちがあるのかもしれない。
 
 英国では拳銃を携行する刑事は少なく、粗暴な容疑者逮捕に向かうときのみ携行する。アクション、カーチェイスはここぞというとき数秒、多くても2分ほど織りまぜる。そういうシーンで時間を稼いでもすぐれたドラマにならないということを知っているからだ。
 
 英国の役者は固定観念を排除して自分独自の刑事になる。だれひとり同じ刑事はいない。うまい役者は工夫をこらす人であり、芸術家と同じように創造者であり、撮影に入るやいなや役の人生を生きている人なのだ。
 
 最終章第4話のラストシーン、バンクスの部下が刺殺される。単なる部下ではない、長年愛し、煮え切らない態度をつづけたことでほかの男性と一緒になったけれど、いまでもお互い愛を保っている。暗い路地で死の直前バンクスの携帯に連絡したが、居場所を話しただけで倒れ、息を引きとってしまう。
 
 最終章第5話の冒頭、捜査班が到着しても遺体のそばを動かないバンクス。部下のヘレンが、「アラン(バンクスのファーストネーム)、みんなに場所を空けて、仕事をさせてあげて」と言う。現場近くの鄙びたカフェ。カメラは窓の向こう側のバンクスと、上司の警視正ほかを撮影している。窓と壁、KAFE(ロゴ)、照明の配色が美しい。
 
 バンクスの思いを知る警視正は捜査からはずれるように言うが、バンクスははねつける。「市民は事件に興味を示し、マスコミは飛びついてきます。しかし同情をよせるのは長くて1週間」、「彼女が亡くなって1時間です。ただちに捜査を開始しなければ手がかりは遠のいていく。捜査が難航して責められるのはあなた(警視正)だ」。バンクスの叫びは魂の声である。
 
 ありきたりのドラマなら陳腐きわまりないシーンだが、出演者は息苦しさ、重さを、特にバンクスは激しさの様相を重層化し、傑出している。窓と壁の配色の美しさはかなしみ色だ。怒りを表に出さず内部で噴出させるヘレンの芝居も見事。
それだけではない、亡き妻のもとにかけつける夫の身体が小さく見えた。英国のうまい役者はときに身体を大きく、ときに小さく見せる。
 
 だれのせいで部下が死ぬことになったのか最後に明かされる。最終章第6話のラストシーン。ムーアに佇むバンクス。イングランドで最も寂しいヨークシャームーアがもたらすやりきれなさと感動。脚本、演出、役者、美術、撮影、音楽すべてに秀でた「DCI Banks」は20年に一度の名作である。

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