2023年7月9日    鷹を継ぐもの
 
 待望のノンフィクションが6月30日(再放送7月9日)放送された。「鷹を継ぐもの」は月山を仰ぎ見る山形の一軒家で暮らす鷹匠松原英俊さんと制作スタッフの特別の絆によって生まれた渾身の力作である。
 
 鳥に人間を仮託するのではない、鷹を鷹として受けとめ、鷹と共に生活し、雪山で鷹を放ち野ウサギを狩る。人間と鳥は同化しがたく、寓話と人生は別であり、懸命に世話をすれば猛禽のクマタカでも人間になれていく。鷹も怒ってばかりはいられないのだ。時には怒りをあらわにするけれど、飢えが続けば毅然としながらも折れざるをえない。人間と鷹のせめぎあい。
 
 松原さんの「最後の最後まで鷹と生きたいという思いが絶体絶命の壁を乗りこえさせてくれました」という言葉が胸に響く。
生きる姿勢がどうのこうのと評論家気取りで口走る輩は鷹匠の修行を一週間やるといい。戦場の兵士のごとく不意に鷹の攻撃を受け負傷すれば尻尾を巻いて逃げ出し、悠長なことをいっている場合じゃないと身に染みてわかるだろう。
 
 JR鶴岡駅から車で山形自動車道を湯殿山インターで降り国道112号線経由で東進すると田麦俣(たむぎまた)まで約50分。田麦俣の北には標高733メートルの鷹匠山がある。
慶応大学文学部東洋史学科卒の松原さんの卒論は「朝鮮の名鷹について」。卒論作成にあたって日本の鷹使いの現状を調べる(「鷹と生きる」山と渓谷社)。慶大入学時、野鳥の会に入会したが、会活動は高尾山へ行って野鳥観察する程度、物足りなくなって退会し一人歩きをはじめる。一年休学して北上山地の養蚕小屋で暮らしたこともある。
 
 松原さんが鷹匠沓沢朝治(くつざわあさじ 1896−1983)の弟子になったのは1979年、24歳。弟子入りを申し出て何度も拒否され、小学校の軒下で野宿、再訪をくり返してやっと弟子にしてもらう。沓沢宅に泊まり込み、春季〜秋季は農作業を手伝い、冬に訓練する。鷹は神経質で過敏だが暗闇でおとなしくなるので、最初の7日間は暗闇で腕に乗せるだけ。
 
 その後ロウソク一本を点し、暴れないことを確かめて少しずつロウソクを増やしていく。それから鷹を腕にとどめたまま夜になって外出。そこまで2ヶ月。食事や入浴以外は鷹と共に生活する。
肝心なのは鷹に断食を強いること、訓練をする者だけがエサをくれると鷹に認識させること。鷹が怒っても何もせず、体力が弱まり怒るのをあきらめるまで待つ。人間の思い通りに鷹が獲物を捕らえねば訓練は成就しない。一年たち、師匠沓沢朝治は79歳となり、山歩きもおぼつかなくなっていた。師弟離別のときがせまってきたのだ。
 
 松原さんが家庭を持ったのは1989。10歳年下で銀行勤めの奥さんとの出会いは1984年、磐梯山登山だった。結婚ということになったとき、奥さんの実家(大阪)が猛反対した。当時一般的だった披露宴も新婚旅行もなく、最初の住居は電気、水道、ガスもなし。風呂の水くみはバケツを持って渓流を30往復。冬は雪をとかし水にする。調理の燃料は薪。
 
 1990年、田麦俣の民家に移る。電気も水もあった。「鷹と生きる」の著者が取材のため松原邸を訪れた。「鷹が居間にいるってすごい光景ですね」と言ったらば、奥さんが、「私たちには当たり前の風景なんですよ」とこたえる。持ってきた荷物を探りだすと鋭い眼で鷹がにらむ。足に紐が付けられ飛びかかってくることはないが緊張したという。
 
 1969年か1970年の冬、小生の帰省中、外出するため靴をはこうとかがんだとき、玄関の開いた引き戸から大きく白っぽいものが飛びこんできた。得体の知れないものは羽ばたき、羽根をばたつかせた。羽根も巨大だったが、爪の鋭さに度肝をぬかれた。明らかに猛禽類なのだが、鷲か鷹か見分けがつかなかった。
うしろで玄関を飾る花を生けにきていた寺岡さんという中年女性が「鷹ですよ」と言った。鷹はあっというまに外へ出ていき、すぐあとを追って外へ出たが影も形もなかった。
 
 「あんなに白い鷹は初めてです」と驚いたようすで「お知らせかもしれませんね」と寺岡さんがつぶやく。小生は夢をみている気分だった。
 
 昭和28年(1953)から昭和35年(1960)ごろ実家から20分ほど歩けば田園地帯が広がっていた。視界をさえぎるものはなく、六甲山系の東側、宝怩ゥら中山へ連なる山々が見通せた。夕焼けの美しさといったらなかった。水色、ピンク、茜色。田園がいつのまにか「でんえ」と呼ばれるようになった区域は、田んぼ、畑、小川が季節の移りかわりにあわせて彩りを変え、小動物、昆虫、小魚の宝庫だ。
 
 晩秋から冬の午前、空を見上げるとトンビとは異なる大きな鳥が上空高く円を描いていた。同じ運動をくり返すだけなのにしばらく眺めていた。ある朝、小魚捕獲用の網を持って「でんえ」に行った。小川に近づき、彼方の山影をぼんやり見ると空から金属か何かがすさまじい勢いで落下してきた。
物体が畑にあたると思った矢先、反転して空に向かった。チョウヒと呼ばれるタカだったのだろう。イタチと思われる小動物を鷲づかみにしている。ゆっくり羽ばたきながら悠然と消えていく姿に王者の威厳と風格がただよっていた。
 
 1992年、息子さんが1歳になったばかりの冬、ストーブの煙突の上部に断熱材を使ったいなかったことで高温加熱した天井から出火、家が全焼し、家族の命は助かったけれど家具などすべてを失った。奥さんは一時意気消沈したが、田麦俣の古民家を見つけることができた。
 
 2015年、松原さんは目の治療のため山形大学医学部付属病院に入院した。眼病はかなり悪化しており、7ヶ月の入院にもかかわらず左目を失明。それを機に田麦俣から天童市田麦野に引っ越す。しかし退院当初は田麦俣で息子さんと同居。
片目の車運転は困難を伴う。「鷹と生きる」によると「壁と道路の境目が判断しづらい」。奥さんは2011年、松原さんと別居し大阪にもどって介護職に従事、ケアマネージャーの資格を取得していた。
 
 天童市田麦野の借家は奥さんが松原さんの入院中に見つけてきた。大きな物置があり鷹用の小屋に適していた。問題だったのは、付近に鷹狩に適したところがなく、鷹狩をするにはは車で1時間かかる。加齢による体力のおとろえという問題もかかえている。そんなとき、2018年の最初、松原さんは脳梗塞に襲われ搬送される。
 
 家族より鷹との生活を優先させる松原さんの生き方は微塵も変わらなかった。生死を鷹と共有する松原さんに対して第三者が「生きる姿勢」という言葉をクチにすれば唇寒しであるだろう。
 
 テレビ放送された「鷹を継ぐもの」には松原さんから指導を受ける浦安の女子高生も出ていた。鷹匠に興味を持ち、放送局の支援もあって松原さんの指導にこぎつけたと思われる。雪山での鷹狩の実践や松原邸での短い逗留もあったけれど、鷹匠になるための訓練とは言いがたく、松原邸の鷹小屋で飼われ十分に訓練を受けた小さめの鷹を使う実践セミナー。
 
 都合のいいときだけ通って成果があがるとは思えず、放送局の取材が終われば来なくなるかもしれない。
それでもおもしろいと感じたのは、女子高生の腕に乗る鷹の彼女を見る眼がどことなくユーモラスで、松原さんが「鷹の胸をなでて、おとなしくしていれば胸のところに指をあてなさい」と言い、彼女がその通りにすると、鷹はうつむき、じっと彼女の手を見つめつづけたシーン。うつむけば鋭い眼とくちばしが見えず、キョトンとした頭がかわいい。
 
 そのうち二度目の再放送があるかもしれない。松原さんが鷹匠を生業とする最後の人となったとしても、「鷹を継ぐもの」の感動は長続きしないとしても、松原さんとクマタカの記憶は残るだろう。
 


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