2007-06-15 Fri      オシアンの歌(2)
 
 「オシアン」が刊行された18世紀のイングランドはスコットランドのジャコバイトの乱(1715年、1745年)に悩まされたが、カローデンの戦いで決定的勝利をおさめた後、ゲール語の使用、バグパイプの演奏、キルト着用などを禁止して、スコットランド弾圧に乗りだす。親イングランド傾向の強かったロウランド(低地地方)は別として、イングランドによるハイランド軽視に反抗的であったハイランダー(高地人)は、ジェームズ一世(在位1603〜25)時代から目の敵にされた。ゲール語やゲール文学の絶滅政策はその当時にまでさかのぼる。
 
 ジェームズ一世はもともとスコットランド王ジェームズ六世で、イングランド女王エリザベス一世の死去にともなってイングランド国王に即位した。ジェームズは、エリザベスの政敵となって斬首刑に処せられたスコットランド女王メアリー・ステュワートの子である。
ジェームズ一世がハイランドで使われていたゲール語を忌み嫌った理由の詮索は別稿にゆずるとして、爾来150年経た18世紀半ば、ゲール語は壊滅寸前のきわに立たされる。
 
 スコットランドといっても、ロウランドとハイランドとでは人種、言語、文化に若干の相違があった。ロウランドにはイングランドと同じ人種が住み、15世紀ごろからハイランド侵略の機会をねらっており、侵略を正当化するために、ハイランドは未開の地で、危険で野蛮な民族が跋扈する土地であると喧伝していた。
イングランド政府は彼らの流言飛語を支持した。20世紀初頭に多くの人々がハイランドを旅する以前は、そういう虚言がまことしやかにまかり通っていたのである。時代背景が20世紀初めまでの英国映画に登場する気取った英国夫人に、スコットランド、もしくはハイランドときくと侮蔑の色が垣間見られるのはそういうことなのだ。
 
 この時期、マクファースンが「オシアン」(1760『古歌の断章』 1762『フィンガル』を出版)を出版、そして世界的名著になった。そこに降って湧いたごとき真贋論争。アイルランドでも「オシアン」は疑義をとなえられた。「オシアン」の古歌はスコットランドには存在せず、アイルランドのみに伝わっている、したがって、マクファースンの「オシアン」は彼の創作、あるいは盗用であると主張した。
 
 そういった疑義、異議に対するマクファースンの反応は風変わりなもので、「オシアン」の原典があるなら披露すべしという疑義側の要望に、疑われるだけでも心外と相手にしなかったという。マクファースンにしてみれば、ゲール語を読めもしない者に原文をみせてもむだ、ちゃんちゃらおかしいということであったのかもしれないが、相手にとってその態度は傲岸不遜ともとれるものだった。
これにはさすがのマクファースン支持者もあわてたようで、スコットランド啓蒙運動の支柱であったデイヴィッド・ヒューム(1711〜1776)は、ヒュー・ブレアに宛てた手紙(1763年9月19日付)に以下のごとく記している。世故に長けた熟年の機知というべきか、一捻りある内容となっている。
 
 『ロンドンの文人の間ではオシアンがとんでもない偽作だという評判が立っていて、このままでは2,3年のうちに相手にされなくなるだろう。そこでぜひお願いしたいのは、これらの詩がローマ皇帝セヴェルス(筆者注:セプティミウス・セヴェルス=在位193〜211。ブリタニア紛争を契機にブリタニア全土占領を目論みスコットランド侵攻を開始したが、その途上ヨークで病没)の時代と同じだけ古いものであるとはいわぬが、せめてこの5年かそこらの間にマクファースンが捏造したものでないことを示す証拠はほしいのだ。必要なのは議論ではなく証拠だ。』
 
 『もひとつが主な点だが、そうした詩がハイランドで日常的に口ずさまれ、民衆のたのしみになっていたという多数の証言を集めることが必要だ。ハイランドの全聖職者に手紙を送り、こんな疑いが出ているのだということを知らせ、生き残っている吟唱詩人に、古詩を朗読させたものをその手で訳文にして貴君のところへ返送させ、これこれの場所で暮らしているしかじかの人物が、英訳詩集のどの部分にあたる原文の箇所を朗読したかを知らせるのだ。
それが正確忠実で、そうした証言を一般人を満足させるだけの数、集められれば勝ちだ。マクファースンは古詩という落とし子の養育を放棄し、ある意味では貴君の養子となってしまったのだ。がんばってくれたまえ。』【高橋哲雄「スコットランド 歴史を歩く」】
 
 
 「ハイランドで採集された古代詩断章(オシアンの歌)」がエディンバラで出版された1760年頃の英国はまさに一大変革期で、英国社会史年表に「産業革命に入る」と記されたのは1770年である。農業改革も並行しておこなわれ、大資本による機械化で従来の村落共同体は成り立たなくなり、農業人口が都市部に流入、地域によっては廃村に追い込まれる村もでるというありさまであった。
 
 英国の背骨といわれたヨーマン(独立自営農民)も壊滅の危機にさらされたし、都市部工業労働者には低賃金問題や弱年労働問題が噴出するが、噴出しただけで何一つ解決されなかった。
機械がごく普通の生活のなかに闖入し、農業を基本とする人々に自然との乖離を強要したからたまらない、長いあいだ培われてきた自然との共生がそこなわれ、工業化と利潤追求は人間関係に疎外感を生み、都市に公害を生んだ。
 
 産業革命前の英国なら「神は自然をつくり、人間は都市をつくった」といっていればよかったのだろうが、機械文明がもたらされて以来このかた効率重視傾向が幅をきかせ、交通機関の発達とスピード化があいまって、それまでの人間生活を一変させた。そこへマルサス(1766〜1834)が陰鬱な調子で「人口論」を唱え、世の中は上を下への大騒ぎ。
 
 それでどういうことになるかというと、鋭利かつ過敏な人々のなかには古代への回帰を論じる者も出てくる。機械の効率性を理解し、急激な変化に順応できても、心のどこかで疑念をいだく人たちが古代崇拝に傾いたとしても不思議ではない。多くのオシアン贔屓を生んだ理由のひとつはそういった時代背景によるものとも考えられる。
わるいのは変化ではない、変化はいつの世にも存在する、問題なのは変化が速すぎるということなのだ。急激な変化への対応に追われている人に、朝が森の奥からよろこびとさわやかさをつれてきたとか、夜の闇にきよらかさをそえる星影などといっても見向きもしないだろう。
 
 人々がオシアンに傾倒していった理由はほかにもある。
戦争は国を疲弊させる。だが、いったんはじまった戦争なら国民は自国の勝利を願うだろう。そんなとき、連戦連勝をつづけるフィンガル王やオシアンの物語がどれほど多くの人々を励ましたことであろう。いつの世も人は英雄の登場を願う、よしんば虚構の世界であったとしても。
 
 『嵐の絶頂に二つの海が すべての大浪をもって激しく打ち合い 大岩のある灰色のルーモンの海峡で 風と雲との激しい闘いが見られる 風に鳴る岩山のさきに亡霊だけがかよう暗い径がある 丘という丘の頂きの高い樹々は 大風に吹き倒され 白く泡立つ鯨の泳ぐ海中に落ちこんでゆく 
その嵐の海のように両軍は突撃する 丘の上を躍り上がって進む戦捷のフィンガル王の姿が見えれば 今度はカーモール王の姿が見える 両首領の荒々しく進むところ 闘う刃が白く光り 右に左に敵を斬りすてる』
 
 『フィンガル王の手に倒れ ごうごうと鳴る流れの川に横たわると 川水が体に遮られてよどみ カーモール王は色蒼ざめて 地には倒れず 顔のまわりに垂れた髪が樫の木にひっかかり 大きな兜がゆっくりすべり落ちた』
 
 上記の描写はスクリーンに映し出された映像をみるかのような臨場感に満ち、後世のヨーロッパ文学、とりわけ歴史小説に多大な影響をあたえ、ウォルター・スコット(1771〜1832)は「アイヴァンホー」を著して成功をおさめた。
 
 ハイランドを縦横無尽に駈けぬけた勇者フィンガル王にもしかし黄昏が近づきつつある。いかなる英雄といえども終焉のない者はいない。すべてのものには終わりがある。だからこそ一編の詩に生命が宿るのだ。
『白髪の歳月よ 自分は勇退する 血を流すことに歓びも益もない 涙は嵐の空の月影のように心を曇らせる 石よ くずれて埃となり 幾歳月の苔の中に失われるとき 後ろから旅人が来て 通りすがりに口笛を吹くであろう 歳月はすぐ闇に消えてゆく 思い出も賞讃も得られない わが名声は勇者をつつみ 過去を照らす一筋の光である』
 
 マクファースンの父はハイランドのマクファースン氏族長の弟で、イングランド&スコットランド戦争のさなか、マクファースン一族はいうまでもなく反イングランドの旗印のもとチャールズ王子軍に与していた。
ハイランドでの小さな勝利はあったものの、1746年2月末「カローデンの戦い」の敗北のあと、氏族長の土地は没収され、以降一族は多くの辛酸をなめることとなる。一家は地主から一転して貧農となったが、一族の支援もあってアバディーン大学に進学した。
 
 しかしそれも束の間、学費の支払いが滞ったためやむなくエディンバラに移住し、市内の本屋の下働きで糊口を凌いだ。エディンバラ大学に入学できたまではよかったが、学位も取得できず職にもつけず、結局、故郷リーヴェンの学校に職をもとめたり家庭教師をしたりして生計を立てる。
 
 マクファースンに転機がおとずれたのは1759年、後に宰相となった第三代ビュート伯の秘書ジョン・ヒュームとの出会いからである。ジョン・ヒュームを通じてエディンバラの知識人ヒュー・ブレアとも知己を得る。当時のスコットランドは啓蒙思想家が多く輩出、「国富論」の著者アダム・スミス(1723〜90)、「イングランド史」のデイヴィッド・ヒューム、建築家ロバート・アダム(1728〜1792)、蒸気機関のジェームズ・ワット(1736〜1819)など、キラ、星のごとくで、イングランドの人材不足とは雲泥の差であった。
 
 ジョン・ヒュームとの出会いで思いもかけない幸運をつかみ、その縁でビュート伯に紹介されたマクファースンは、飛び立つ鳥のごとくオシアン論争から脱けだし、1764年に英国領となったばかりのフロリダの総督秘書官となって北米にわたる。
1766年には政府に雇われ、ペンネームを使って野党を攻撃、1770年代に二冊の大ブリテン史を書き上げる。1776年・合衆国独立宣言のときには政府の広報活動にたずさわり、反独立運動の論陣をはったという。
1781年、東インド会社関係のインドの富豪の代理人となって蓄財の好機を得、同時期、1780年から庶民院議員となったが、1796年に死亡するまで一度も議会演説をおこなわない議員であった。1784年に健康を害して帰郷、遺言によって遺骨はウェストミンスター・アビーに埋葬された。
前頁 目次 次頁