2006-09-28 Thu      旅に想う(6)
 
 旅の途上では日常と異なる時間のなかに身を置いているからなのか、思わぬことを思うことがある。旅に出て、日常と変わらぬ時間を過ごしているような感覚しか持てぬ者はあわれだ。経過する時間は同じでも、時間の流れ方はあきらかに異なり、そのちがいに気づこうとしないからである。
 
 私たちは否が応でも文明から恩恵を受け、同時に阻害されている。しかし、文化から恩恵を受けるか否かは当人次第である。文化は私たちの内に在る。考えようによっては異文化さえ内にある。想像力が文化を受容するかどうかを決める。あると思えばある、ないと思えばない。万物は流転するのであってみれば。
 
 ジョルジュ・サンドは「マヨルカの冬」にこう記している。
「苦痛はあらゆる意味で恐れや猜疑心、不正や争いを引き起こす。スペイン人は貧しく、重税に苦しめられている。そのため外国人に対して貪欲で利己的なのだ。(かつて偉大だったスペインも)偉大さを奪われると人間は、押しつぶされなければならない。」
 
 また次のようにも記している。「多くの人は気晴らしを求める。いくらかの暇と金があるとき、われわれはみな旅に出る。というよりも逃げ出す。紛らわせなければならない苦しみや、振り払わなければならない軛(くびき)のない人などいるのだろうか。そんな人は一人もいない。」
ジョルジュ・サンドが苦痛と記したことが日常であるなら、日常はいまわしいだけのものとしかいいようがない。だが、苦しみをともなっていても、平凡な日々なら何をかいわんや。地球上には平凡を得るために戦っている人のいかに多いことか。
 
 こんなことを綴っていると、まるで私は冴えない貧乏左翼主義者のようだ。金運に恵まれず、冴えないのはたしかとしても、心はいつも、かぐわしい香りの薔薇園に在る。そこは常に、どこからともなくそよぐ風が薔薇を愛撫し、官能的な匂いが立ちこめている。私は花のため息を胸いっぱい吸う、心をしぼませないために。
 
 行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし   詠み人知らず (実は忠度)
 
 
 旅の途上で魂を震撼せしめるのは、風景と私自身が一致する瞬間である。そういうことのために私は旅をする。癒しは旅の目的ではない、結果である。私はもはや逃げ出しもしない。逃げ出すためでなく、自己を発見するために旅に出るのだ。
気晴らしで旅に出るのはもったいない。気晴らしなら安上がりのものがほかにいくらでもある。
 
 英国に行くとムーアに出くわす。「嵐が丘」の荒涼たる風景に遭遇する。私と風景の一致は、黒ずんだ泥炭の上に茶色く茂るヒースの群生に対してだけではない。時間の推移とともに繰り広げられる空と雲と風と光の戯れ、大気の清々しさに魂が感応する瞬間に一致をみるのだ。
神々しい風景は人を裏切らない、神々しい人間が人を裏切ることはあっても。裏切りは時として永く記憶にとどまる。だが、もっと永くとどまるのは、私たちを裏切らなかった風景であり、人である。私たちは愛したから忘れられないのではない、愛されたから忘れることができないのだ。
 
 肉親や子、最愛の人を失って忘れることのないのは、彼らを愛した記憶からではない、愛された記憶が彼らを忘れさせないのである。一方的に愛したのではない、愛することで愛されたのである。それで十分なのだ。そこに自分との一致をみることができたなら。
 
                          (未完)
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