2007-01-11 Thu      見ればかならず
 
 いつまでも懐かしい風景がある。写真入りの新刊書を本屋の店頭で見つければ右手が伸び、5月か6月にたった一枚載っているだけでカレンダーを買い込む。テレビで放映されれば画面に釘付けになる。
あの日ざしのあたたかさ、あの風の冷たさ、あの空の碧さ。それらが渾然一体となって、澄みきった空気にさまざまな色をちりばめる。見ればかならず心に刻まれてゆく英国の風景。
 
 いつまでも変わらない風景がある。パキスタンのペシャワールを夜明け前に発った。アフガニシタン国境に向かう道中、さえぎるものの何もない、180度みはるかす地平線に黄金の小皿の先端がみえ、目をこらすのを待ちかねたようにオレンジ色の帽子の頭に変わり、めらめら燃えた真っ赤な玉が地平線を突き破りながら姿をあらわした。
 
 アフガニスタンのヘラート郊外、タフティ・サファール(旅人の玉座)でみた夕焼け(「庭園班OB会」の「思い出す人々」=『いもうと』を参照してください)。あれから35年経ったが、いまなお色あせることはない。
 
 いつまでも年をとらない人がいる。昭和59年夏、北海道で不幸な死を遂げた従妹は34歳だった。学生時代、二度と叶わない夢のような時間を共有して別れた人は24歳のままである。変わらないのは容貌だけではない、声の調べ、響きまで変わらないのだ。
いつまでも生きている人がいる。その人たちはいつも心のなかにいる。かなしいとき、つらいとき、うれしいとき目の前にあらわれる。見ればかならずそこにいる。まぶたを閉じてもそこにいる。親は死なない、いつまでも生きている。
 
 私の父は48歳、母は71歳で亡くなった。平均寿命に較べればずいぶん短い生である。親のいない子ほど不幸な者はない。どんな状況、状態でも生きていてほしい。そういうことも死なれてみてはじめてわかる。
わかってもすでに手遅れだから親は死なない。私たちの生あるかぎり親は生き続ける。私たちが望む望まぬにかかわらず、私たちを見守ってくれる。そして何度でも許してくれる。
 
 カレンダーの年月、絵、写真が変わっても、変わらないのは心の風景である。心のカレンダーは時が止まっている。見ればかならずこたえてくれる。忘れていたことを思い出させてくれる。生きる指針を示してくれる。
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