2004-09-11 Saturday
グレン・コー

 
 グレン・コー(Glen Coe)の虐殺は1692年2月13日、ことの起こりはこうである。
 
 イングランドの名誉革命(1688)の直後、イングランド軍とハイランダー(スコットランド高地人)とがピトロッホリーの北西キリクランキー(Killiecrankie)で戦い、勇敢なハイランド軍が勝利をおさめる。
氏族の首長、あるいは指導者が指揮するハイランド軍の団結力を見過ごしにはできないと考えた王党派のスコットランド国務長官J・ダルリンブルは、1691年8月、ハイランド全氏族長、指導者に英王ウィリアムへの忠誠の誓いをたてるようせまった。
 
 氏族長たちは当初深刻に受けとめなかったが、応じない場合の武力報復を避けるため、しぶしぶ誓言書に署名した。そういう状況下で、グレンコーのマクドナルド氏族長・老マッキアンはぎりぎりまで署名せず、期限直前の12月30日、吹雪をついてフォート・ウィリアムスに出頭した。
ところが、署名場所は遥か南のインヴェラリに変更されたというのだ。やむをえず老マッキアンは、雪の降りしきる山を越えて1月6日、誓言書に署名してグレンコーに戻った。
しかし、王党派がこの遅延を見逃すはずはなく、2月2日、グレンライオン(Glen Lion)に駐留するキャンベル大尉指揮の軍隊120名がグレンコーに到着、国王&国務長官の命令を待った。
 
 キャンベル隊に対して、ハイランドの伝統的歓待が10日間おこなわれた2月12日、密命は下った。翌未明、70歳以上の老人を除く全員を男女の別なく、迅速かつ極秘裡に抹殺せよとの命令であった。
そしてそれは執行され、老マッキアン夫妻をふくむ38名が殺害された。
だが、38名という数字は「全員」からはほど遠い数で、残る400名弱は、暗闇と吹雪にまぎれて山間部や荒れ地に逃げたのである。危機を逃れた者のなかには凍死した者も少なくなかったろうが、老マッキアンの二人の息子、一人の孫も危うく難を逃れた。
 
 巷間伝わるところでは、二人の士官が任務遂行を拒否した。そしてまた、マクドナルド一族の手厚いもてなしを受け、情の移った兵士が、それとはなしに行く末をにおわせたり、当日未明、わざと大きな物音を立てて急を知らせたという。闇から闇へ葬りさられるはずの事件はこうしてみなの知るところとなった。全員が殺されていれば、グレンコーの虐殺は歴史上存在しなかったかもしれない。
そういう史実を知っているか否かにかかわらず、殺伐としたグレンコーは見る者に何かを訴えてくる。秋なのに冬のような光景。かすかな光は散り散りになってヒースの荒野に吸い込まれてゆく。訪れる者を歓待するような景色ではない、できれば一刻も早く暖を求めて宿に向かうか、熱いコーヒーをすすりたくなるような風景なのだ。
 
 それにしても、この殺風景のどこがよいのかと自問するほかないのだが、殺風景であるがゆえに都会には見当たらない馥郁とした温かさを感じるのだ。温かさの原因は、もっこりしたヒースのせいかもしれない。10月初旬というのに秋は終わろうとしている。朽ちゆく匂いが草むらにただよい、あたりは秋というより春の匂いに満ちている。
山々は黒ずみ、山裾にはしじゅう靄がたれこめる。荒涼たるヒースの原野に時折つむじ風が吹く。家は一軒あるが、あの家で旅人を待つ者はいない。だが、だれかが待っていると旅人に思わせる何かがあるのだ。
 
 過ぎ去れば、この世のことはすべて、山間を曲がりくねって吹く風のように、低くたれこめる靄の彼方の弱い光のように、私たちから遠ざかっていく。しかしその光は、北風の吹き荒れる暗い野に旅人がすくむとき、雲の切れめから射してくる月の光にも似て懐かしく、妙に明るく感じるのである。
強い光は閃き、刻印を残すが、弱い光は臆しているかのごとく幽かにほほえむだけだ。にもかかわらず弱い光は、寂寞とした野を、あるいは、深い霧につつまれた森の奥を照らす日影のようにやさしいのである。

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