2003-05-22 Thursday
英国のトースト
 
 1999年6月中旬、英国を旅した。初めて英国の地を踏んだのは1969年夏ゆえ30年ぶりだった。それまで英国に関心がないわけのものではなかったのだが、ほかのヨーロッパ諸国や西南アジアの国々に魅せられていたのだ。
英国は30年間でずいぶん様変わりした。69年当時はウィルソン内閣(64〜70)で、在位中に通貨切り下げが実施された。圧倒的強さを誇っていたUKポンドは、忍び寄る不況の影におびえ、わななき、凋落の一途をたどりつつあったのだ。
 
 不況対策として鉄鋼国有化の実施、国防費の削減、極東および中東の英駐留軍撤退が発表された。当時のUKポンドは1ポンド=邦貨1000円ほどで、USドルは360円だった。現在のUKポンドは読者諸氏の知るところである。
経済状況とは関係なく、ウィルソン内閣は長年の懸案事項であった死刑制度に決着をつけるべく、69年12月、死刑永久廃止を決議した。時おりしも、北アイルランドでは暴動が続発していた。70年6月、英首相はウィルソンからヒースにバトンタッチされた。アイルランドの暴動は激しさを増しダブリン暴動が勃発、北アイルランドのベルファストでは爆弾テロが頻発した。そのためIRA弾圧法などという法律がつくられもした。
 
 ヒース内閣はしかし、何の成果もないまま降板。それから3年間、キャラハン内閣が政権を担当した後、鉄血宰相サッチャー内閣(79〜91)が誕生する。彼女の名が世界に轟いたのは、アルゼンチンとのあいだにフォークランド紛争が起こったからである。サッチャーは断固たる姿勢を貫いた。以来、ワールドカップサッカーにおいても、イングランド対アルゼンチン戦は因縁の対戦となっている。
サッチャー時代に起きたIRAによるマウントバッテン卿暗殺事件(79年8月)は、英王室に暗い影を落とした。卿は王室の良きアドバイザーであったし、チャールズ皇太子の師ともいうべき人であった。そしてまた卿は、婚姻前のダイアナ・スペンサーを娘のように可愛がっていた。18歳のダイアナは、父親を失ったような悲しみの日々であったという。ダイアナも97年8月、パリで不慮の死を遂げた。
 
 サッチャー時代は英国の試練の時代でもあた。英国の不況に乗じて、オイルマネー、ジャパンマネーがドッと流れ込み、英国の斜陽もここまできたかと思わせた。ロンドンの「The Savoy」や「Harrods」は、エジプトの富豪(その富豪の息子がダイアナ妃と交際し、パリで死んだドディ・アルファイド)に、エディンバラの「The Caledonian」は日本のセゾングループの総帥(つまりは堤清二)に身売りされた。
サッチャーの真骨頂は、英国不遇の時代に手腕を発揮したことである。つぶれるものはつぶれる、のこるものはのこる。そして経済は淘汰される。臥薪嘗胆。海外投資によって競争力をつけ、いつの日にか巻き返す。生き残りを賭けて真摯に取り組んだ者が勝利する。荒療治は見事に成功し、英国は不死鳥のごとくよみがえった。
 
 思えば30年前、ロンドンのホテルでの朝食時、テーブルにはバゲットとクロワッサンしかなかったので、トーストをと給仕にたのんだらイヤな顔をされた。怠慢なるかな英国、食パンを切って焼く時間を惜しむのか。民間がかくも怠慢、不遜なのである、後は推して知るべし。英国経済が斜陽化し、凋落の一途をたどるのはむしろ当然であった。
1999年初夏、英国は生まれ変わっていた。あえて注文しなくても、焼きたてのトーストが供された。トーストは小さく薄くなっていた。トーストはむろん主食ではない、上に何かのせて食すのが一般的。上に何かのせずとも、小さく薄いほうが食べやすく美味。そしてまた、小さく薄く切るのは手間がかかる。
 
 たかがトーストだが、英国人のものの考え方に変化があったのだろうか。それがトーストに反映されたのだろうか。いずれにせよ、彼らは怠慢とおさらばしたのである。

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