2004-01-09 Friday
ロカマドゥール 旅人の玉座
 
 旅には二種類の旅がある。感動にひたる旅、感動を分かち合う旅。忘れられない風景がある。忘れられない人がいる。旅をして、人知れず感動することはある。感動は、目の前に広がる風景によってもたらされるよりはむしろ、風景を眺めているうちに追想にふけって感動することのほうが多い。心のなかにしまっていた映像が忽然とあらわれ、眼前の風景にかぶさっていくのである。
 
 若かったころ、旅は一人旅にかぎると思った。人と出会う機会も一人旅のほうが多かった。若さが、風景との出会いより人との出会いを志向する。若さは経験の乏しさである。経験は密度という人もいるが、私はそうは思わない。二十五歳と四十五歳では心のなかに在る風景の総量が違う。
若さを失ったと感じたある日、旅に出る。旅の途上で心奪われる風景に出会ったとき、愛する者の映像が浮かび、徐々に膨らみ、その人との思い出に酔い陶然とする。風景は心のなかの映像に置きかえられるのである。
 
 南西フランスのミディ・ピレネー、ロット県ロカマドゥールの夜景。カメラ2台ともトラブルに見舞われ、残念ながら撮影できなかったが、4年以上たったいまも忘れられない風景となって記憶に深くとどまっている。
修道院を見おろす急斜面から町まで降りて、おそい夕食を終えたとき、あたりは漆黒の闇だった。私たち三人は毛布をすっぽりかぶった夜に向かって歩いた。絶壁に屹立する修道院をくぐりぬけ、延々とつづく曲がりくねった地道を登っていったのだった。
 
 空は霽れていたが、あいにくの新月で、足下さえおぼつかず、それでも登りはじめたころは、ライトアップされた修道院の明かりが夜道を幽かに照らしていた。が、それもだんだんなくなり、とうとう光がとどかなくなった。墨を流したような夜道、私たちは全身を目にして歩いた。
ロカマドゥールの夜景がほんとうに神々しくなったのはそれからである。何度振り返って修道院を眺めたことだろう。私たちのほかにだれもいない。森羅万象みな眠りについている。私たちは夜の静謐に包まれている。私たちは暗がりを忘れ、夜に溶けこんだ。
 
 美しかった。たとえようもなく美しかった。私たちは夜の底知れない深さに陶然となった。あの日の夜、ロカマドゥールは命の一滴をしたたり落としてくれたのである。
私たち三人は時を惜しむかのように何度も立ちつくした。そんなときだった、家内の姉がポツリといったのは。
「旅人の玉座だね」。まさしくそうだった、そこは旅人の玉座だった。姉はずいぶん前に私がいったことをおぼえていたのである。
 
 あれはアフガニスタンのヘラートにある「タフティ・サファール」(トラベラーズ・スローン=旅人の玉座)のあまりにも美しい夕映えを語ったときだった。姉は家内がそうしたように目を輝かせて話に聞き入った。
夢中になって話を聞いていると、人はその風景のなかに入ってゆくという。現身(うつしみ)はその場に残るが、魂は風景のなかに入ってしまう。話し手と聞き手の感性の一致がそうさせるのだ。
 
 私はあの夜、自分が語る「旅人の玉座」という言葉以上に、人が語る「旅人の玉座」にいいしれぬ深さと喜びを感じた。あれから4年3ヶ月、時折ロカマドゥールの夜を思い出しては追憶にふけっている。
 
                    ↓ クリックで拡大画像


PAST INDEX FUTURE