2004-05-16 Sunday
ザルツブルクの憂鬱
 
 プラハからウィーンまでは空路だった。便はオーストリア航空・OS644、機材はチロリアン(Tyrolean)航空の機材を使っていた(共同運航)。これが国際線にはおよそ似つかわしくない小型機で、定員28名ほどのプロペラ機。
 
 出発時間に遅れてきた乗客2名が、遅れたためにチェックインカウンターで預けられなかったデカい旅行鞄2個を、チロリアン航空の地上勤務員は飛行機の土手っ腹をひょいと開け、サッと投げ込んだ。旅行鞄は申し訳なさそうにお辞儀して、機体の脇腹に滑り込んだ。
 
 かなり以前、北海道の丘珠(札幌)=紋別間を往復していたプロペラ機(1日各1便)に家内と共に何度か搭乗したことがある。日本近距離航空の19人乗りセスナ機で、機内放送なし、年配の客室乗務員(男)が座席を回り、右手の人差し指と薬指を唇にあてて、次に左手を横に振る。機内は禁煙という意味である。
このセスナ、強風が吹くと欠航する。丘珠発はまだしも、紋別発は欠航が多かった。当時、紋別空港はオホーツク海に面したコムケ湖のそばにあり、海から強風の吹く日が少なからずあった。いまでもおぼえているのは、地上は強風ではなく離陸しても、上空は強風が吹きすさび、セスナがガタガタ揺れる。その揺れ方は尋常ではない。翼がガタガタ音を立て、いまにも折れそうな揺れなのである。恐いの恐くないのったらなかった。
 
 セスナが着陸態勢に入り、水平飛行に移るころホッとする。丘珠発の場合は、眼下にコムケ湖が見えたとき、やれやれと思う先から、どうか湖に落ちないでと手を合わせたことも一度や二度ではない。丘珠=紋別間でその便を利用していた期間、セスナ機は二度墜落し、乗客乗員は全員死亡した。
 
 チロリアン航空の機材をひと目みた途端に「丘珠=紋別」セスナを思い出し、家内と顔を見合わせた。が、北海道で事故にあったわけでもないし、事故にあっていたらチロリアン航空に搭乗することもなかったし、ここで墜落したら運が悪かったとあきらめよう。
さいわいにも上空は雲一つなく、そよ風が心地よい絶好の飛行日和。OS644便は定刻より5分早い午後12時55分、ウィーンに到着した。その日は、10月上旬にしては摂氏20度と暖かく、薄手のセーターを着用するだけで市内散策ができた。
 
 ところが翌々日からがいけません。朝から厚い雲が狂人の額のごとく低くたれこめ、マイヤーリンクを観光するころは氷雨の降りしきる悪天候。気温は摂氏5度で止まったまま。寒さに弱い私はウィーンの森で意気消沈。こんな寒い日が明日以降も続くとしたら‥持病がお出ましになるかもしれないという強迫観念におののいた。
はたしてお客はその二日後、ウィーンではなくザルツブルクで、それも、宿に着くのを俟っていたかのようにあらわれた。「思い出すこと」の「アポテケ」(2001年4月13日)に事の顛末を記したので省く。
 
 宿に荷物を置いてすぐ、薬局探しに奔走した。「薬局の一軒くらいあってもよさそうなものなのに」、観光が薬局探しになったことについて、家内は恨みがましいことは露ほども洩らさず、汗をかきかきゲトライデ通りの端から端まで何度も往復してくれた。
ようやく見つけた薬局でも、ドイツ語で持病を何というかわからず、お尻に手をあてたり、人差し指と中指の間から親指を出したりしたが埒があかない。それどころか、指マネがかえって薬剤師(男)の混乱を招いた。薬剤師は私を見て卑猥な笑みを浮かべた。
 
 このクソ忙しいときに、だれがそんな悠長な、というか淫靡な動作をするものか。ええかげんにせえ、「ヤマイダレにテンプルじゃあ。それに効く塗り薬が要るんじゃあ!」、そう叫びたくなった、通じないとわかっていても。
ザルツブルクといえば、走り回ったことしかおぼえていないと家内は言うております。

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