2010-02-01 Mon      英国の風景(3)
 
 6月、ノース・ヨークシャーをドライブしていると、春と初夏の二通りの光を浴びる。午前と午後の相違ということではなく、高緯度のせいで太陽が南天に上がらず、地上すれすれの低い位置をぐるりと移動する。日が遠くにあるときは春で、近づくと初夏なのである。しかし遠近の差はわずかだ。
 
 光が温かいかそうでないかは皮膚が感じる。光の色の微妙な変化は目が識別する。
ヨークシャー地方、とりわけムーアの6月の光は、温かさのなかにひんやりした空気が混じり、太陽の進みぐあいで空気の色が忽然と変わる。それは南イングランドや東イングランドにはない空気の調べだった。
 
 光のほんとうのすばらしさを感じるのは生と死の瞬間だけではないかと想像することがある。生まれたときに見る光と死ぬときに見る光の色は同じではないだろうか。その色は透明感のある淡い橙色か緑色かもしれない。
胎児は闇からでてくるのではなく、薄明かりのなかからでてくるのではないか。長いあいだ暗がりのなかにいるようにもみえるけれど、ほんとうは薄明を感じているのではないか。数ヶ月のあいだ昼と夜を何度も繰り返しているのではないだろうか。
 
 童子のような深い眠りからさめることはなくなってしまったが、ごくたまに浅くない眠りからさめることもあり、そのとき僅かにみえる光の色は、透き通った淡いオレンジやグリーンである。
死の世界から戻ってきたわけのものでもないのに、死の瞬間にはそんな光を感じて、雲の上に導かれるのではないかと思うこともある。
 
 ムーアは雲の残骸だ。花はほとんど咲かず、ヒースの花だけが荒涼たる地をはうように咲き、ムーアに吹く風は、そこに残された魂のごとくうめき声をあげている。この世はこうしたものだ、ここはあの世の場末であり、そのかぎりにおいて寂寞なのだといわんばかりに。
 
 それにしても身をゆだねたくなる幽かな光は何なのだろう。
6月、ムーアに射す日に安息できたのは伴侶と共有したからだ。ムーアの光は生と死の境界をやさしく見つめている。それが人を惹きつけずにはおかない深淵なのである。
                                                 (未完)

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