1980年代から2006年ごろまでの約25年間、夏期リゾート地として欧米でもてはやされた南仏プロヴァンス地方が
有名にしたのは「プロヴァンスの12ヶ月」などの著者・英国人作家ピーター・メイル(1939−2018)。
 
ピーター・メイルの小説「プロヴァンスの贈りもの」が映画化され2007年8月に上映されたが、そのころは
すでにいっときのブームは下火となり、プロヴァンス特にリュベロン山麓域各村は落ち着きを取りもどし始めていた。
 
リュベロンは野菜と子羊の産地としてフランス国内で名をはせているけれど、海外向けには初夏から夏の観光地
としてガイドブックに紹介されている。
 
 リュベロンにはプロヴァンスの珠玉ともいうべき小さな村が丘や渓谷の斜面に点在し、どの村も魅力にあふれており甲乙
つけがたい。が、あえて七つの村を選ぶなら、ゴルド、ボニュー、メネルブ、ルシヨン、セニョン、グルト、ルールマランという
ことになる。ここでは観光客に最も人気があるとされるゴルドを紹介しましょう。
ゴルド全景
ゴルド全景
 
リュベロン西部に位置するゴルド村は人口約2100人。初夏から夏にかけての3ヶ月、人口の数百倍の観光客が押し寄せる。
20世紀半ば南仏に移住した画家マルク・シャガール(1887ー1985)がゴルドを発見しなかったら、ゴルド人気は数十年遅れていたかもしれない。
 
ゴルド
ゴルド
 
ゴルドの年間降水量は約670ミリときわめて少ない。それどころか年300日は晴れるという。ゴルドが属するヴォクリューズ県の
ヴォクリューズ山系は豊富な水に恵まれ、地下水脈の清流がわき出すことから、降水量が少ないにもかかわらず農業、牧畜を
営むのに適しているのだ。
 
リュベロン地方へ行くには、シャルルドゴール空港でマルセイユ空港行きに乗り換え、マルセイユからは手配済みのレンタカーを使う。
 
A51を北上し、D556〜D973と北西に進み、D943で北方向へと右折すればルールマラン、ボニューへ行く。
D943からの山岳ドライブは決して楽とはいえないけれど、ボニューの10キロ北西のゴルト(Goult)からゴルドへ
向かうD104の急勾配隘路に較べればほんの口笛運転にすぎない。
 
シャトー 
シャトー 
 
ゴルド村の中心部、丘の頂上に建てられたシャトーは起源を11世紀に遡るという。左右にみえる塔は裏側と合わせて4つ。
現在のシャトーは1525〜1541年にかけてルネサンス様式で再建された。入場期間は3月〜10月。城内はおおむね展覧会用で、
入場料の平均は7ユーロ(18歳以上)。12〜17歳は4ユーロ(2018年6月現在)。
 
シャトー広場はゴルド中心部にあり観光起点として都合もよく、村は路地だらけ、これといった駐車場もななく、ほとんどの車が駐車する。
6月ともなれば日中の最高気温が30℃をこえる日もある。長時間駐車の車内はサウナ状態。欧州仕様車のエアコンは効きがよくない。
欧州でも年々夏期の異常高温が頻発している。旅先で熱中症なんてことになれば目もあてられない。
 
リュベロン山麓と平野部をのぞむ
リュベロン山麓と平野部をのぞむ
 
喧噪を逃れて昔ながらの風景をみる。日陰をわたる風が暑さと疲れをいやしてくれる。
 
 
広葉樹にまじって針葉樹もみられる。地下に水源がなければ、これほどの緑もなかったろう。
 
急坂
急坂
 
ゴルドはどこを歩くにしても急な坂道とアップダウンのくり返し。
脚力の弱い人、短時間で村全体を見ようと思う人にはむかない。
 
 
 
ゴルド 昼下がり 携帯持て過ごす女性
ゴルド 昼下がり 携帯持て過ごす女性
 
21世紀の昨今、いずこも同じ風景。
 
 
ゴルド 路地
ゴルド 路地
 
こんなところにも街灯がある。30年ほど前の新月の夜、民家からもれてくる灯りがなければ真っ暗だった。
 
ゴルド 路地
ゴルド 路地
 
30年前(1980年代後半)の人通りがなかったころに較べると、初夏ともなれば観光客で賑わう路地。
 
風化した建物と石畳にそぐわない19世紀ふうの街灯が数メートルおきに取り付けられている。
 
 
ゴルド レストラン
ゴルド レストラン
 
1990年代になってオープンしたレストラン。以前は民家だった。
 
ひなびた村に似合わない人間の数だというふうに思ったりもする。が、歩きながら携帯電話の会話に夢中になり、
ロクに前を見ない歩行者がいないのはさいわいというべきである。
 
 
 
ゴルド 街灯
ゴルド 街灯
 
天井にぶら下がり街灯。光量多し。夜の散歩時、壁にぶつからなくてすむ。
 
ゴルド 路地
ゴルド 路地
 
右側の民家の奥に街灯あり。
 
 
 
ゴルド
ゴルド
 
 
ゴルド
ゴルド
 
 
ゴルド コーヒーブレイク
ゴルド コーヒーブレイク
 
 
ゴルド 涼しげな家
ゴルド 涼しげな家
 
 
 
 
ゴルド
ゴルド
 
 
 
 
セナンク修道院
セナンク修道院
 
セナンク修道院はゴルドの北3キロの徒歩圏内。ラベンダーが満開となる6月中旬〜7月初旬、リュベロンは
最も活気に満ちた季節となる。
 
セナンク修道院 中庭と回廊
セナンク修道院 中庭と回廊
 
セナンク修道院は1148年、シトー修道会(厳律シトー会の呼称も)によって建てられた。シトー修道会が最も繁栄した12〜13世紀、
修道院数は1800にのぼったという。宗教改革まっただなかの1544年セナンク修道院はプロテスタントに放火され、
修道士のほとんどは絞首刑、教皇庁のあったアビニヨンに近いゴルドは宗教改革を受け入れてしまう。
 
フランス革命勃発直後、荒廃に身を任せていたセナンク修道院は国有化のあと売却されたが、1857年カンヌ沖合レランス諸島(レラン)の
サン・トノラ島にあるレランス大修道院に購入されたことは幸いというべきである。
修道院に隣接して2階建ての建物が完成し、レランスから修道士72人が移住してきたのだ。
 
その後、1903年の法律改正によって修道士たちは追放の憂き目にあい、セナンクに居残った5人の修道士は自らの生活の維持
すらできない状態となり修道院を去る。
 
1969年、国内の自動車会社(ポール・ベルリエ社=のちにルノーが買収)とのあいだに30年のリース契約が結ばれ、
修道院の復興と保存、修道士の復帰などが委任された。1988年、レランス大修道院から新たな修道士が派遣され、
2012年以降10人が生活しているという。
 
 セナンク修道院は現在入場料、ラベンダー栽培、はちみつとギフト販売などを生業とし、レランス修道院依存から解放された。
 
セナンク修道院 ラベンダー
セナンク修道院 ラベンダー
 
修道院はロマネスク様式で大農家ふうの地味な低層建築だが、それがかえってラベンダーと調和している。
修道院の色もシックでいい。
 
単にラベンダー畑が広がっているより背景に中世の建築物があることによって独特の雰囲気を醸しだしている。
 
 
セナンク修道院
セナンク修道院
 
ラベンダー栽培は古代エジプトにはじまり、薬として調味料としてハーブとして利用され、さらに芳香植物として香りが活用されてきた。
16〜17世紀、英国のエリザベス1世ほかの王侯貴族のあいだでラベンダーのジャムが人気となったという。18世紀は香水の世紀である。
 
20世紀に入って南仏ヴォクリューズ県(リュベロンを含む)で改良種の栽培が盛んとなり現在にいたっている。
 
セナンク修道院
セナンク修道院
 
日が傾くころ、太陽は修道院とラベンダーにとけこむかのようにかがやく。修道院もラベンダーにとけこみそうな気配である。
こういう瞬間に出会うこともあるから旅に出る。
 
ファームステイ
ファームステイ
 
ラベンダー畑の向こうは農家を改装した宿泊施設。1〜3家族またはグループが貸切り、
複数の寝室とリビング、浴室、キッチンを備えている。
 
 
フォンテーヌ・ド・ヴォクリューズ村への道
フォンテーヌ・ド・ヴォクリューズ村への道
 
 
フォンテーヌ・ド・ヴォクリューズ村
フォンテーヌ・ド・ヴォクリューズ村
 
セナンク修道院を見学したら、ヴナスク村の前にフォンテーヌ・ド・ヴォクリューズ村に寄りたい。
いったんゴルドへもどり、D2を5キロ南下し、D110〜D100を4キロ北上せねばならず面倒であるが、
フォンテーヌの名前どおりの美しい流れを見ていっとき暑さを忘れ、旅の疲れをいやすために。
 
 
ヴナスク村
ヴナスク村
 
セナンク修道院からヴナスクへは狭隘なD177を北北西へ9キロほど行き、D4との三叉路を左折して3キロ弱で着く。
人口約1100人。民家も広場も噴水も斜面にある村。
 
ヴナスク
ヴナスク
 
ヴナスクのハイライトは村の高台からのぞむヴォクリューズ山の景観だ。
雪をかぶったようにもみえる白色石灰岩が露出し、多くのハイカーが頂上めざすという。
 
体力の消耗を防ぐためにハイキングを避ける旅人は、若い女性の背後からながめる。
 
ヴォクリューズ山
ヴォクリューズ山