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メネルブはボニューの西約12キロ、ゴルドの南約10キロの地点に位置し、
マルセイユ空港からは車で北へ約1時間半。
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筆者のように村内をうろうろして写真撮影する人も少なく、6月(2018年)の旅行シーズンに
しては静かで、ノスタルジーにひたる環境はととのっていた。
英国人作家ピーター・メイルがメネルブに居を構えたのもそういうことなのかもしれない。
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これといった駐車場が少ないため道路沿いに車を駐めている。
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Epicerie は食料品店(または食料雑貨店)の意。フランスも英国も小さな町や村ではおなじみの店。
LEGUMES は野菜。
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メネルブからD109を東へ7キロ走ればラコスト(Lacoste)村だ。村の頂上にはサド侯爵(マルキ・ド・サド 1740−1814)が
1766年に建てた城跡がある。画像中央の遺跡状建造物がそれ。
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車を村営駐車場に放り込んで石畳を歩くのだけれど、かなりの急勾配。
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小石をいいかげんに敷きつめただけの急坂はすき間だらけで、踏みしめて歩かないと足をとられそうになり、
城跡に近づくにつれて心臓破りの坂となる。
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かわりばえしない城跡と金属製とおぼしきサド侯爵像のほかは特段これといったものはないが、眺望はすばらしい。
以下、マルキ・ド・サド(サド侯爵)のマルキ(侯爵)の名の由来。
君塚直隆著「物語 イギリスの歴史(上)」に、「侯爵(英語 Marquis)は、フランク王国や神聖ローマ帝国で蛮族との
国境地帯(辺境区 March)を守備する最高司令官に起源を持ち」、「ドイツ語でも通常の伯(Graf)より格が高い
辺境伯(Markgraf)として位置づけられる。
ブルゴーニュやアキテーヌの領主も10〜11世紀まではMarquisで、のちにDuc(英語のDuke=公爵)へと
昇格している」と記されている。
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サド侯爵といえばスキャンダル。パリで複数の娼婦を私邸に招き入れては放蕩のかぎりをつくし、
当時の法律に抵触する重罪を犯して逮捕。収監の直前、サドの奥方ルネの計らいでイタリアに脱出。
数年イタリアに身を隠した後、再度逮捕されたが逃亡、ラコスト城へ。
しかし1778年ラコストで逮捕され、ヴァンセンヌの監獄(シャルル5世が1373年パリ郊外に建設)に収容される。
その後サドは11年間の獄中生活を余儀なくされる。
サド像の頭部をおおっているのは牢獄と解され、両腕が身体からはなれており足がないのは、ルネ夫人の協力が
なければ手も足も出せないということなのだろうか。
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ヴォクリューズ山系と裾野に広がる景色を見渡せる。
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2018年6月19日夜、半月の前日、月齢5.3のお月さん。空気が澄んでいて撮影順調。
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6月半ば〜6月下旬、リュベロン地方に行けば必ず畑一面に咲くラベンダーを目にするでしょう。
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ルシヨン村はメネルブの北12キロの小さな村(人口約1100人)。リュベロン地方をふくむプロヴァンスを広く紹介した
英国人作家ピーター・メイル(1939−2018)が棲みついたのはメネルブであるが、ルシヨン村のレンガ色、バラ色など
の土でつくられた民家もすばらしい。
ゴルドに較べて観光客はまばら。わがもの顔に闊歩するチャイニーズもセレブも見ない。やかましい村ではなく静かな村
を望む旅人にうってつけの場所といえる。
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村のてっぺんに墓地がある。それより上に人家はない。墓は常に住民を見おろしている。曲がったことをしないように。
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ちょっとしたランチを食するには高級レストランよりビストロ。低価格のハウスワインとまずまずの一皿を出す料理人もいるし、
気さくな雰囲気もいい。ブランド志向の観光客がいないのはさらにいい。
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ルシヨンとメネルブの中間より少しメネルブよりにグルト村はある。
メネルブから曲がりくねった隘路D218を北東に6キロ進む。
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現在の人口約1100人の村には似つかわしくないほど中世以降さまざまな歴史の興亡に彩られたグルト(Goult)は、
19世紀ナポレオン3世(1808−1873)の時代になってもごたごたが続く。21世紀の村のようすからは想像しがたい。
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リュベロン地方ではめずらしい日本車(白)。
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似たような白のワンピースを着ているけれど、上の女性とは別の女性。髪の色と履き物が違います。
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